花咲く旅路1

 薄い水色の空に、重そうな灰色の雲が浮かんでいる。
「あの雲、俺の気持ち」
 桜木花道はパチンコの帰り道だった。しばらくはこれっきりと決めて臨んだが散々だった。軍資金は三千円。何日分の食費になっただろう……。

 吐く息が白い。寒さで険しい顔をした人たちとすれ違う。目に入った本屋の時計は夕方五時を指していた。仕事帰りの時間だろうか、くたびれた顔もちらほら見える。すれ違いざまに俺を見てくるやつもいる。背の高い俺は人目につくんだろう、頭も赤いし。地毛なんだけどな。そんなに目立つと悪いことはできないね、と昔から言われて来た。母親の顔は知らない(どこかで生きてはいるようだ)、父親は俺が中学の時に病気で死んでしまった。色々と複雑な環境だったがなかなかまっとうな人間に育ったと思う。無職だけど。一昨日クビになったばかりだった。知り合いに紹介された清掃業だった。仕事そのものは悪くなかった。ただたまに点検に現れる上司の物言いが気にくわなかった。わざと抜き打ちみたいにして現れるのが気に食わなかったし、いつもネチネチやられていた。見た目のこととか仕事の態度とか、椅子に座ってふんぞり返って、毎回毎回グチグチグチグチ。同じところをつねられるような感じだ。会えば会うほど気に食わなくなっていった。気にくわなくて気にくわなくて、気付いたら頭突きをくらわしていた。即クビだった。たまにしか現れないのだからうまいことやればいいのにと言われた。一方で「胸がすっとした」「恩にきる」と感謝もされた。三週間くらいしかいなかったのに送別会まで開いてくれるそうだ。同僚たちには好かれていたと思う。最初は恐る恐るの様子で年上も同じ歳も敬語で関わって来たけど、すぐにため口になって打ち解けた。おしまいには年下までもため口になった。

「明日からなーにしよっかなあ」

 どう考えてもやるべきことは職探しだろうが、どうも俺は仕事が長続きしない。サボりも遅刻も欠勤もしない。働くこと自体は嫌いじゃない。ただもうとにかく指図されるのが我慢ならないのだ。あれしろこれしろ命令されるのが大嫌いなのだ。
 唯一我慢できたのは高校時代。バスケが絡むと、どんなに命令されても納得した。反発したことは何度もあったが、その倍の熱量が返ってくるから俺は納得していた。あの頃は、うまくなることに夢中だったから、バスケがうまくなるためなら何でもやった。それに、なんだかんだで俺はバスケに関わるやつらが好きだった。好きな人間の言うことなら素直に聞くことができんだよ、と言ったら、それはみんなそうだ、と友人の洋平が言った。ただ、好きじゃないヤツの命令だけが恐ろしく受け付けないんだ、と言うと、それだってみんなそうだと洋平は笑った。みんなと同じなのになんで俺だけ違うんだと言うと、「お前は大物だからね」とやっぱり洋平は笑った。「無職でも大物ってのはありか」と聞くと、洋平は「ありだな」と頷いた。あいつは俺を甘やかす。
 しかし実際、俺もそこまで心配はしていなかった。なんとかなると思っていた。ただ金がないのは、それはちょっと困った。多少の蓄えはあるが、家賃と電気・ガス・水道にとっておかないといけないので、自由に使える金などほとんどないに等しい。

「金はないけど時間があるよー」

歌うくらいしか娯楽のない日々が来そうだ。

***

 アパートにつくと、階段脇に子どもが立っていた。髪が真っ黒で色の白い子どもだった。目はキッとあがったりりしい顔つきで、ちょっと目を奪われるような顔立ちだ。襟もとに動物の毛みたいなのがついたあったかそうな上着を着ていて、なんだか俺を見ている。じいっと見られている。
 ……誰の子だろう、と考えを巡らせる。
 この木造二階建てのアパートには俺を含め全部で十世帯が暮らしていて、俺は生まれてからずっとこの家で暮らしている。全員顔見知りだ。だが、こんな子どもは見たことがない。
 親戚の子かなんかかな、首をひねりながら前を通り過ぎようとすると、「さる」と聞こえた。道ばたでサルと聞こえたら普通はなんとも思わないか、どこかにサルがいるのかと探すだろう。だが俺は、サルという悪口を言われていた経験を持つ。脛に傷を持つ俺はサルと言われたら、悲しいかな自分の悪口を言われたと思うのだった。

「おい、お前、今、サルって言ったか」

子どもは頷いた。

「俺に言ったのか」

また頷いた。

「なんで俺がサルなんだよっ!」

 子ども相手に思わず強く出てしまったが、子どもはびくともしなかった。俺みたいなでかい男にこんなに強くでられたら、普通は大人でもひるむ。けれど子どもはもう一度「さる」と言った。今度はちょっと頬を高潮させて、まるで肝試しをしているようだった。

「なんてガキだ! 親の顔が見てえよ、全く!」

 今のは我ながら大人っぽいセリフだった。
 子どもはまだ俺を見ていたが、これ以上相手にするのがイヤになった。二十三歳がこんな子ども相手にムキになるなんて恥ずかしいことだ。

「おまえ、知らない人間つかまえてサル呼ばわりなんて、そんなこと続けていたらいつかえらい目にあうぞ。相手が俺だから良かったものの・・・・・・」

言ってて虚しくなるくらい、響いていない顔をしている。目はしっかり俺を見ているんだけど別のことを考えているような顔だ。

「じゃあな、言葉には気をつけるんだぞ、子どもよ……」

 決まった。
 カンカンと音を立てて階段を上っていると、後ろからタンタンタンと小さな足音が聞こえてきた。振り返るとさっきの子どもが付いてきていた。二階の住人の子どもかなんかだろうか。誰か越して来たのか。でも部屋って空いてたか? 誰か結婚したとか? 隣の朱美さん、再婚したんかな。不思議に思いながらドアに鍵を差し込む。子どもの様子が気になって視線をちらりとやると、すぐそばに立っていた。
 わっ、と後ずさる。俺は不意打ちに弱いのだ。

「お前、えっ、なんだよ、ついてくんな」
「……はいりたい」
「え、俺の家に?」
「うん」
「なんでだよ、便所か?」
「ちがう」と首を振る。
「じゃあなんでだよ。知らない奴のうちにあがったらだめじゃないか。危ないぞ」

俺は危なくないけど、一般論だ。知らない大人の家に上がるとかだめだろ。

「……」

黙りこんでしまったのに不安になる。

「なあお前、親はどうした? 近くにいるのか?」
「いないよ」
「じゃあ誰か大人は? 知ってる大人はいるのか?」
「いない」

 家出か!
 こんなに小さいのに!?
 なんて世の中だ!
 思わず天を仰ぐ。

 子どもはまだ俺を見ていた。
 ふと、こいつ誰かに似てるなあと思った。遠い昔の、思い出したくもないアイツ。まさかまさか、と頭を振る。
 それにそんなことは今はいい。今はこの子どもだ。誰に似ていようが関係ない。
 とにかくこんな子どもをこんな時間に放ったらかしには出来ないだろ。
 ピュッと冷たい風が吹いてぶるっと震える。
 目の前にいるのが急にとてつもなく小さいものに感じた。
 優しくしてやりたい気持ちになる。謎は山ほどあったが、そんなことは後回しだ。

「よし入れ。俺の家もたいしてあったかくはないけど、外よりはましだろ。お前、名前は?」
「おうすけ」
「オースケか、いい名前だな。俺は桜木花道。桜木お兄さんと呼んだらいい」

 少しだけ照れながら言うと、「はなみち!」と言ってきた。あ、そっちで呼ぶんだな。しかも呼び捨て……。
 まあいい。
 とにかく俺は中に入れてやった。

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