花咲く旅路14

 その日の夜、流川は来た。ここのところ夜は、部屋に入るなりすぐに服を脱ぎだすような俺たちだったが、今日はそんなことはなかった。流川は玄関でじっと俺を見ながら、「考えてきた」と言ってきた。昼間のあれかなとピンときた。「入れよ」と顎をしゃくると、靴を脱ぎだした。俺はやかんに火をかけて茶を入れるために湯を沸かした。茶っぱを急須に入れながら「何を考えてきたんだ」と流川を振り返ると、上着を脱ぎながら「昼間の」と返してきた。やっぱりそれか。昼間の続きをやるつもりだ。なんとなく、あの話は流れるんじゃないかと思っていたから、流川が続きをやろうとするのは意外だった。
 いつものこたつの位置に入った流川の前に湯呑みを置き、俺もその右隣に座った。流川が湯呑を両手で包む。
「聞かせろよ」
「ん」
 頷いたのに先が続かない。こいつは流暢に喋るタイプじゃないからな。
「オースケが言ってた、一緒にパフェを食べた知り合いのことだろ?」
「そー」と頷く。
「誰なんだよ」
「テメーと会う前……今みたいに」
 ちらっと俺を見てきた。意味が通じているか探るような目だった。
「こんな風に会うようになる前だろ?」
 流川が頷く。
「ショーカイされて、何回か、会ってた、ひと」
「紹介?」
「ケッコンしろって言われてて」
 心臓がドクンと鳴った。いきなり強烈な単語が来た。
「……へえ」
 流せるような話じゃなかった。仕事、子ども、結婚……俺と違ってこいつは本当に現実的に生きてきたんだと思い知らされる。
「結婚するつもりだったのか」
「しろって言われてた」
「誰に?」
「まわりとか」
「なんで周りにしろって言われるんだよ」
「したほうがいーって」
「そんなの、自分で決めることだろうが」
「……そーだけど」
「結婚したかったのか」
「……わかんねえ」
「分かんねえってなんだよ。自分のことだろうが」
「……」
 流川が黙ったのを見て、責めるような口調になっている自分に気づいた。
「何回か会ってたんだろ?」
 意識してトーンを変えて尋ねた。
「その人のこと、気に入ってたのか」
「……よく分かんねえ」
 苛々する。
「お前、何なら分かるんだよ」
「……」
「じゃあ聞き方変える。なんでその人と結婚しなかったんだ」
 すぐにこたつの中で膝のあたりを蹴られた。責めるような視線を寄越してくる。
「んだよ、蹴るな」
「テメーに会う前の話だって言ってる」
「だからなんだよ。俺に会う前でも会った後でも、関係ないだろうが」
「なんで」
 ハンっと鼻で笑ってしまう。
「お前が結婚したいなら、俺に会ってるのは違うだろうが」
「どういう意味」
「俺もお前も男だ。結婚はできねえだろ」
 流川が口をつぐんだ。流川の人生計画に結婚があるのなら、俺と会っているのは意味がない。
「……別にしなくていい」
「なんだよそれ」
「テメーとはそういうの考えなくてもいい」
 カッとした。
「じゃあ帰れよ」
 思わず言っていた。流川が驚いた顔を見せた。少しだけ、しまったと思ったが撤回はしなかった。だって、そうだろう。俺とはそういうのを考えてないってことは、他の奴と考えているってことだ。そんなのを言われて、じゃあこれからもよろしくってなる奴がいるか? 少なくとも俺は違う。俺は、他の人間と結婚をするかもしれない奴と関係を持つなんて絶対に嫌だ。性に合わない。好きな奴が、俺以外の人間と関係を持つのも嫌だ。気分が悪い。そしてそういうのでうだうだ悩む自分が一番嫌だった。高校の、目で流川を追いかけることしかできなくなったあの頃の苦しい思いが蘇る。あんなつらいのはもう二度とごめんだ。流川の姿を見るたびに苦しかった。あんな思いはもう絶対にしたくない。本当は、それを言えば良いんだろう。でも俺は言えなかった。言いたくなかった。悔しかった。だから、
「めんどくせえ」
 そう言った。全部の言葉をすっ飛ばしてそう言った。どう伝わるかわからない危ない言葉だと知っていたけど、これも取り消さなかった。
 流川は少しの間固まっていたが、思い直したように握っていた湯呑の茶を一気に飲んで、立ち上がった。上着に袖を通すのを横目で見ながら、これで終わりになるかもしれないと思った。また終わるのかと焦る一方で、でも終わらせるなら今がいいと思った。今ならまだ傷が浅い。しばらく胸は痛むだろうが、じきに忘れるだろう。一緒に暮らしたりした後じゃなくてよかった。そんなのした後だったらもっとずっと落ち込むに決まっている。靴を履く気配がする間も、俺は今離れたほうがいいんだと必死になって自分に言い聞かせていた。ドアが開く音がした時、オースケの顔が浮かんだ。
「オースケには、今まで通り来ても良いって言っとけ」
 流川は返事をしないで部屋を出ていった。

 その日は眠れなかった。何度も寝返りを打って悶々としていた。自分が間違っていたんじゃないかと思っては、そんなことはないと打ち消した。流川と交わした言葉や流川が見せた表情を何度も繰り返し思い出していた。またアイツと終わってしまったのか。そう思うたびにとてつもない喪失感があった。流川は誰かと結婚してしまうのだろうか。オースケはその人の子どもになるのだろうか。俺はもうあの二人と今までみたいに一緒にいられないのか。流川が他の誰かと結婚しても、俺は流川との関係を続けるという選択肢はありえるのだろうか。続けていれば、そういうのでも幸せだと言える日が来るのだろうか。何度も心を探ったが、分からなかった。どの選択肢も苦しかった。結局苦しいのかよ、と自嘲した。俺は二人と今まで通り過ごしたいのに、アイツは違うんだろうか。流川が望むものは何なのか。
 いつの間にか外が薄っすらと明るくなっていた。体を起こして窓に目をやり、夜が明けていくのを重たい目で眺めていた。ひどい朝の迎え方だった。

 いつもの時間にコンコンと鳴って、ドアを開けるといつも通りオースケがいた。その後ろに流川の姿はなかった。
「おはよう、はなみち」
 俺を見上げてくるオースケの笑顔が荒んだ俺の心に染みる。
「お前が元気で何よりだ」
 自然とオースケの頭に手が伸びる。ずっとこいつのこの可愛い頭を撫でていたい。オースケが俺の手に自分の手を重ねてきた。
「おとーさん、おしごと」と言ってきた。
「とーちゃんと来たのか?」
「うん」
 首を伸ばして、アパートの階段脇を覗いてみるが流川らしき姿は見えなかった。昨日の今日で、どんな顔して連れてきたんだろう。
「きょう、おとーさん、おひるごはんいっしょにたべないんだって」
「そうか」
「あしたもたべないんだって」
「……そうか」
「あしたのつぎはたべるかな」
 キラキラした目で尋ねられて、「どうだろうな」と答える。白々しい。食べないに決まっているのに。
「とーちゃんと昼飯、食べたいのか?」
「うん。はなみちと、おとーさんと、ぼく」
 指を折って数えるオースケを見ていると、大きなかたまりが胸にこみあげてきた。慌てて上を見て深呼吸をした。泣いてたまるか。涙と格闘する俺の傍らで、「みじかいはりが1、ながいはりが12になったら」とオースケが唱えだした。
「なんだよそれ」
「かえるじかん」
「そんなのあるんか」
「うん。みじかいはりが1」
「1時だな。1時になったらどうするんだよ」
「ちゅうしゃじょうにいく。おとーさん、そこに、いるんだって」
 1時になったら駐車場に来るんだぞ、と流川が伝えたんだろうか。あの無口な男が。あの口下手な男が、どうやって伝えたんだ。見てみたかったなその光景。面白くって、それでいてあったかいんだろうな……。
「1時になったら教えてやるよ」
「はなみちもいく?」
「俺はいかねえよ」と言いかけて、ふと思った。
「お前ら、今までその駐車場にいたのか?」
「うん」と頷いて、「しりとりしてた」と付け加えた。
「なんでしりとりするんだよ」
「はやくつくから」
「早く着いたら、しりとりしてるのか?」
「うん! いつもぼくのかち」
 そんなところで、ふたりは時間を潰してたのか。そんなこと考えたこともなかった。早く着いたらなんて、そんな遠慮をしていたのか。そんなのいらないのに。俺の家なんていつ来たって良いのに。決まった時間に来るのを不思議に思ったこともなかった。流川が決まった時間になるようにしていたんだ。アイツがそんなことを考えるなんて。どこでそんな遠慮を覚えてきたんだ。その時やっと、流川がこれまで背負ってきたものが見えた気がした。少しだけど。子どもを抱えて生きてきたのだ。現実的にならざるをえなかったのだ。俺が知らない経験をたくさんしてきたに決まっている。俺とは経験してきたものが違うのだ。
「とーちゃん、まだ駐車場にいるか?」
「わかんない」
「ちょっとその駐車場に連れて行けよ」
 俺が言うとオースケがぱっと顔を輝かせて「いいよ!」と言った。
 オースケに先導されて、俺はふたりが約束している駐車場に行った。流川の車があった。黒くてデカい車の中に流川の姿が見えた。オースケがと駆けて行き、俺もその後に続く。フロントガラス越しに目があった。俺一人だったらきっと出てこなかったと思う。でもオースケがいたから流川は出てきた。オースケが流川の足に嬉しそうに抱きついて、オースケを挟んで俺たちは見つめ合った。
 流川の疲れた顔を見て、こいつも眠れぬ夜を過ごしたんだと思った。
「今日、昼飯いらねえのか」
 流川は返事をしなかった。ただ俺を強い目で見ていた。
「なんでオースケと一緒に来ないんだよ」
「来るなって言った」
 子どもみたいな言い方をして睨んできた。
「来るなとは言ってねえだろ」
「めんどくせえって言った」
 それは言った。俺たちの雰囲気を察したオースケが心配そうに見上げてきた。
「とーちゃんを昼飯に誘ってるんだ」
 オースケを、流川の方に頭の後ろが来るようにして抱き上げた。流川がどんな顔をしても良いように。
「昼飯食べていけよ」
「俺は来るな、って言った」
「あれは間違いだ。お前とオースケ、両方に来てほしい」
「めんどくせえって言った」
「あれも間違いだ」
 そう言っても口をへの字みたいにして睨みつけてくる。
「お前が結婚するとか言い出すから、動揺したんだ」
「するって言ってない」
「だよな。今わかった。俺が悪かった」
 流川は最初から伝えようとしていたのに、なれない言葉に過剰に反応して、先回りして、しないでもいい嫌な想像を勝手にしてしまっていた。俺は、流川に関しては全く余裕がないんだ。
「俺はお前のことが好きなんだ」
 最初からこれを言っておけば良かったんだ。
「言わないままで、また高校の時みたいになるのイヤだし、言っとく。俺はお前とずっと一緒にいたい」
「……」
「お前もだろ?」
 流川が顔を歪ませて小さく頷いた。空いてる方の手を流川に伸ばして抱き寄せる。流川が俺の肩に顔を埋めてきた。じわっとそこに熱いものが広がっていく。
「悪かった」
 もう一度謝ると、流川の体が震えた。

つづく

2023/9/23
読んでくださってありがとうございます。
「どうなるんだろう……この人たち」といった心境です。
前の更新から1年半も経っていました。
次はそんなにお待たせしたくない。