トランジット7

 部活前、体育館に続く渡り廊下を歩いていたら年上っぽい女子生徒の人から「桜木くん!」と声をかけられて肉まんをもらった。「買い過ぎたから、あげる」ということらしい。知らない女子の人から食べ物をもらう、というか、こんな風に親しげに話しかけられることなんて全然なかったので、ドキマギしてしまった。高校ヤローはモテてるのだろうか。生意気な。やり取りの最中にバスケ部の連中が何人か通り過ぎて行った。冷やかすような視線をよこされて恥ずかしくなる。流川も通ったが、アイツは立ち止まることもなく見向きもしないで体育館に入って行った。ちょっとくらい興味を持ってもばちは当たらんだろうが。肉まんをもらっていると途中から別の女の人がやって来て「私はあんまんあげる」とあんまんまでもらった。「早く頭戻るといいね」と言われた。記憶がなくなって十日目、俺の記憶喪失は学校中の人間の知るところとなっているようだった。

 腹が減っていたのでもらった肉まんとあんまんをさっそく食べることにした。体育館の中で食べるのはなんとなく気がひけたので、入口のところに立ち、さて甘いのが先か辛いのが先かと考えていたら、急に「どいてよ赤頭!」とすごい勢いで吹き飛ばされた。いつの間にか流川のファンが沢山現れていて、そのままぐいぐいぐいぐい押され続け、気づいたら渡り廊下の端っこまで追いやられた。中庭の植え込みぎりぎり。しょうがないのでそこにしゃがみ込んで肉まんから食べた。

「流川くーん!」

・・・・・・えらい違いだ。小さく丸まって肉まんを食べながら俺を追いやった流川のファンをじいっと観察する。流川はもてる。部活中だけじゃない。俺と一緒に帰るときとか昼飯食ってるときとかもしょっちゅう声をかけられて、しょっちゅう握手を求められている。でも流川は全然相手にしていない。興味がなさそうだった。ああいうのを硬派っていうんかな。流川が言葉が交わすのはバスケ部の連中と洋平たちくらいだ。が、なんといっても俺。俺と一番話している。話してると言っても喋るのは主に俺だけど、でも一番一緒にいる。俺はそれを得意げにおもっていた。他人に興味を見せない男が俺とは話して家にまで来ている。俺は特別なのだ。自分が特別というのはいい気分で、余裕も生まれる。だから、どんなに流川のファンの人たちに邪険にされても、戸惑いこそあっても恨みの気持ちはなかった。でもいくらこちらが優しい気持ちになっても相手側があんなだといつまで経っても歩み寄れない。そもそも歩み寄る気なんてあちらさんには毛頭ないのか・・・・・・なんてことをつらつら考えていたら突然後ろから「何やってんだとっとと入れ」と尻を蹴られた。誰だ、と見ると三井改めミッチーが立っていた。
「なんだミッチーか」と言うと三井の顔が変わった。
「思い出したのかお前」
「いいや違うけど」と首を振ると、「なんだ違うのか」と残念そうな顔になった。そうか、三井も俺に記憶が戻ってほしかったのか。嫌われているんだと思っていたけど、高校ヤローに戻って来て欲しいから俺に当たってただけなのかもしれない。
「ミッチーや」ともう一回言ってみると、「変な呼び方してんじゃねえよ」と返されるが、言うほどいやがっていないのは明らかだった。だって雰囲気ががらっと変わった。一気に友好的になった。流川の言ったとおりだ。呼び名を変えただけで変わった。
 あんまんを半分に割って「食うか」と渡したら、チラッと俺の手を見た後、サッと奪って一口で食べた。
「早く入れ。俺達には時間がねえんだ。こんなとこでモタモタしてんじゃねえよ」と襟もとを引っ張られた。慌ててもぐもぐと、残りを口に押し込んだ。

***

 流川が怒っている。
 部活中から変だった。いつもみたいにリョーチンに言われて俺の練習は見ていたけど、ずっと不機嫌だった。話しかけても反応がなかったし、目が合わなかった。無視に近い。いつもはあれでも喋っていた方なんだなと思い知らされる。
 部活後、部室で着替えをしていても流川はやっぱりロッカーの方ばかり向いていた。俺はすぐ隣りにいるのにまるで誰もいないみたいな態度だ。周りではバスケ部の連中がテンション高く喋っていてやたら賑やかなのに、俺と流川のところだけ温度が低い。流川にこっちを向いてほしくていろいろ話しかけても全部無視されて、いい加減腹が立ってきた。それで思った。驚かせようと。驚いたら、弾みでこっち向くんじゃねえかなと思ったのだ。だから、
「俺、記憶が戻った!」
 と言った。顔を寄せて、流川にだけ聞こえるようにはっきりと。
 案の定、流川はすぐに俺を見た。そして見る見るうちに顔が崩れて行った。期待するような、でも泣き出しそうな、そんな顔になった。思っていたのとは全然違う反応で、瞬時にしてはいけないことをしたと悟った。俺の動揺が顔に出たのか、流川も俺の嘘に気づいたようで、すぐにスッと表情を消した。持っていた服を素早くカバンにつめ始めて、バンッと音を立ててロッカーを閉じ、部室を出て行った。あまりにもあっという間の出来事で、誰も俺達のやり取りに気付いてすらいなかった。「今の流川か?あいつ、ラーメンは」というミッチーの声が遠くで聞こえた。
 残されて、俺は混乱した。最初はとにかく悪いことをした、と焦った。でも次第に、流川が見せた顔に考えは集約されていった。あの顔はなんだったんだ。あまりに無防備な顔だった。間違いなく、誰にでも見せるような顔じゃない。特にあの流川だ。俺だってあの瞬間まで見たことがなかった。ミッチー達とラーメンを食べている時も、その帰り道も、家に帰ってからもずっとそのことについて考えていた。俺が記憶が戻ったと言ったら流川が見せた顔。つまりあれは高校ヤローに向けた顔なのだ。あの顔を高校ヤローは見ているし、流川も高校ヤローには見せるのだ。二人の間には俺には入りこめない特別なつながりがあるのだ。ひどいことを言ってもずっと家に来ていたことや、俺とは特別よく喋ることも、ぜんぶ高校ヤローのためのことだったんだ。流川はあんな風だし何も言わないから気づかなかったけど、本当は誰よりも流川が一番俺の記憶が戻ることを願っているんじゃないのか。しっかり考えてみれば、そんなの当たり前のことなのに、今の今まで気づかなかったなんて。俺はうううっと頭を抱えた。ちんどん屋がやたらめったら騒がしかったのもあったし、なんといっても流川が自分じゃない人間を求めていることがショックだった。だめなのだ。流川は俺じゃだめなのだ。

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