あれから後も俺はやっぱり流川が好きだった。ややこしいことこの上ない状況だけど、不思議と穏やかな気持ちだった。流川が変わらずうちに来ていることが大きいかもしれない。流川がどういうつもりで来続けているのかはよく分からない。記憶が戻るのを待ってるのはあるだろう。俺を心配しているのもあるだろうし、行くと決めたら最後までと自分との約束を果たしているようにも見えた。なによりもこたつが好きというのもある気がした。冗談みたいな話だけど、それが一番な気がした。自分の住処のようにとにかく居心地良さそうにしているから。なんというか、そういう奴なのだ。俺ともう一人の俺の一番の違いは流川と過ごした時間の長さだ。そしてそれによってもたらされたいろいろなものだと最近はそう思っている。想像してみただけでもそれはあまりに大きくて、無くしたままにしておくのはもったいない。だから、俺はそれを思い出したい。俺は自分のために記憶を取り戻したいと思っていた。
「もうほとんど違和感ないなあ。記憶戻ったんじゃねえの」
周りからそんなことを言われるようになった。俺もたまにそんな気がしていた。ちんどん屋もなりをひそめている。まるでいなくなったみたいに静かだ。もしかして自然と戻ったんかなと思うときもあるけど、高校に入った頃のことや流川と出会った時のことは分からないままだ。だからやっぱり記憶は戻っていない。ただもういつかは思い出すだろうなと思っていた。だから無理して思い出そうとはしなかった。どうせ思い出すのだから。
でも、思い出すその前に、俺は流川に伝えておきたいことがあった。
「お前に言っておきたいことがある。俺にしか言えないこともあるみたいだからな」
例によって、部活帰りにうちに寄った流川はこたつで丸まっていた。話しかけてるのに動きもしない。人が改まっているのにこんな態度があるだろうか。
「おい、ちょっと起きろよ」
めんどくさそうに顔だけ向けてきた。
「俺とお前がアメリカ行きでケンカしていたという話だが」
そう言うともっとめんどくさそうな顔をしてこたつの深いところにもぐりこんでいきそうになったので「寝るのはいつでもできるだろ」と手を伸ばして止めた。
「大事な話なんだよ」そう言うとやっと流川は体を起こした。
「俺は最初にあの話を聞いた時、自分が怒ったってのがよく分かんなかった。お前がアメリカ行って帰ってくる、それだけのことでケンカになるのが謎だった。けど今ならすごく分かる」
「なにが」
「寂しいし不安だったんだ。お前が俺の知らないところに行ってしまって、もしかしたら俺の事忘れるんじゃないかって」
「俺は忘れねえって言った」
遮るようにして、流川とは思えないくらい強く言葉が返ってきた。
「でも、どんなにそう言われても、不安に思ってしまう気持ちってのはあるんだ。好きな奴ならなおさらだ。置いてかれる寂しさを感じてしまうのは、しょうがねえことだ」
「テメーはあの時もそう言った」
その時を思い出すように一点を見つめて、流川が話し始めた。
「寂しいとか不安とか、俺は、そんなのは分からねえって言った。俺は忘れねえって言ってんのになんで不安がるのか俺には分かんなかった。それは、俺を信じてねえってことだって思った。そう言ったら、テメーは怒った」
「すっげえ怒った。怒って、口をきかなくなって、こっちを見なくなった。テメーはずっとずっと怒ってた。テメーの方がどっか行ってしまったみたいになった」
堰を切ったみたいに流れてくる言葉を聞きながら、俺は、ああこいつはやっと言えたんだと思った。ずっと言いたかったはずだ。だけど言えなかった。俺が自分のことでいっぱいだったから、流川の言葉にちゃんと向きあえていなかったのだ。
「ずっと俺は口をきかなかったのか?」
「そうだ」
「でも、おれが記憶失った日、俺はでかい声で歌ってたんだろ?」
「ああ」
「俺は、悩みがあるときは歌えねえようにできてるんだ。だからな、俺が歌ってたってことは、それは悩みがなくなったってことだ。ふっきれたんだ」
「・・・・・・呆れたってことか」
「違う。お前はお前だって気付いたんだ。お前の中にある強さみたいなのを、そういう一番大事なものに、どっかで気付いたんだ」
一ヶ月にも満たない付き合いの俺が知ってるくらいなんだから、それ以上の俺なら絶対に知っているはずだ。そのことを思い出して自分の強さも思い出したんだ。だからあの日、俺は歌えていたんだ。そんな大事なことを伝える前に、でかい声で歌い続けた自分を殴ってやりたい。挙げ句、記憶をなくしてしまうなんて。なんてトンマなんだろう。
「高校の俺も、お前のことすげえ好きだぞ」
流川がペタリと、おでこをこたつにくっつけて、顔を隠してしまった。
寂しい思いをさせていたんだ。どんなに強くてぶれないって言ったって限界があったはずだ。おまえ、よく我慢できてたな。俺はずっとそのことに気付かなかったんだよな。ひどいことをしてたんだな。
「俺は、お前のことを嫌いになったから忘れたんじゃない。高校を忘れたのは、本当にたまたまだ」
「イヤになったんじゃねえのか」
「ちがう。高校の俺もお前のこと大好きだ。これは絶対だ」
手を伸ばして、流川の頭をポンポンとすると、「・・・・・・分かった」とくぐもった声で返ってきた。その小さな声を聞いてもっと早く教えてやれればよかったのにと思った。ずっとずっと気付かなくてごめん。忘れてごめんな。
***
記憶を失って四回目の日曜日、昼前に流川が大量のチキンを持って現れた。
「こんなにたくさん、すげえな。買ってきたんかよ」
パーティーできるぞこれ。
「もらいもんって言ってた」
「こんなにもらったんかよ」
「まだ家にあった」
どういう家だ。
「これ、俺たちが全部、食べていいのか」と聞いたら目をキラッとさせて頷いた。
「最高じゃねえか」と言ったら、目を輝かせたまま頷いた。
テレビをつけたら北の大地特集をやっていた。北の大地の美しい景色を見ながら俺達はチキンを食べた。北の大地のうまそうな食べ物を見ながら、茶をすすった。北の大地はうまそうなものだらけだなあと言ったら、流川は「んあ」と言った。それを聞いて、コイツそろそろ寝るなあとぼんやり思った。画面が変わって動物を紹介するコーナーになった。クマや馬やらが出た後に、えらく可愛い生き物がうつった。つり目で毛がふさふさで。テレビ画面に「キツネ」と文字が出た。それを見て急に目の前が溶けていくみたいになった。ゆっくりゆっくり意識が透明な膜みたいなもので覆われていって、頭のてっぺんからつま先までからだじゅうがじわーっとあたたかいもので満たされいった。最後に全部がつながった。
「北の大地にはおめえの仲間がいっぱいいるな」
流川が驚いた顔をして俺を振り返ってきた。ああ流川だ。ずっと見てたのに。ずいぶん懐かしい気がする。
「俺はお前をキツネと呼んでいたんだよな」
「テメー」と流川が言うので、俺は頷いた。
「ああ、思い出した。帰ってきた天才桜木、高校バージョン」
両手を広げて流川を抱きとめる準備をした。なのに飛んできたのは鉄拳だった。派手な音を立てながら、俺はその場にひっくり返った。そのまま仰向けでいた。殴られたところをさすりながら、いろんなことを思い出していた。
「・・・・・・お前には、本当に、世話になったなあ」
その一言に尽きるだろ。もうさっきから涙が止まらねえわ、俺。流川がのぞきこんできたので、もう一度両腕をのばすと、今度こそ流川は抱きついて来た。またガシャンと音がした。こたつの上は、えらいことになっているだろう。
「ただいま」と言うと、「どあほー」と懐かしいセリフが返ってきた。俺は流川を力いっぱい抱きしめた。
おしまい