鞄を忘れた男

 休憩時間、机に突っ伏した状態で目を閉じたり開けたりしていると脇腹をつんっとつつかれた。覚えのある力だった。
「おい。起きろよ」 
 桜木の声だった。
 体を起こし確認すると、本当に桜木が立っていた。口をへの字にした変な顔で自分のことを見下ろしている。桜木が自分のクラスの中にまで入ってくるのはとても珍しいことだった。
「また寝てたんか」
「……起きてた」
「うそつけ」
 半分は本当だったが、面倒なので黙っておいた。
「スーガクの教科書、貸してくれ」
 スーガク。
 数学か。
「お前のクラスはもう終わったんだろ?」
「おわった」
 たぶん。部活の後ということで寝てしまい、ほとんど記憶がないが数学だったはずだ。机の中を探ってみると、教科書が出てきた。渡してやると「おう」とえらそうなセリフをしおらしく言って受け取った。今日はなんだか様子が違う気がする。なんとなく殊勝な感じなのだ。じいっと見ていると「オレ今日、財布と鞄一式忘れちまった」と頭を掻いた。
「まぬけ」
「うっせえ」
 自分でもそう思っている、と顔に書いてある。
「洋平に借りようかと思ったんだけど、あいつ同じクラスだし。お前に甘えることにした。だって俺たち、」
 途中で止まったセリフの続きが分かったから頷いた。自分たちは近頃に恋人同士になったのだった。
「後で、英語も借りに来る」
 桜木と一緒になって前の黒板に書かれた時間割を見ると、5限目が英語だった。机の中を探ってみると英語もちゃんと持っていた。今日の自分は冴えている。なんでも貸せる。一緒に渡しておこうかとも思ったが、もう一回来る方が良いので黙っておいた。桜木はチャイムが鳴るのと一緒に帰っていった。

 学校に来るのにカバンを忘れるなんて。
 あいつはドアホーだな。
 でも自分も何回かやったことがあるので、これ以上笑うのはよしておいた。笑った分がぜんぶ自分に返って来る。
 鞄を忘れた桜木は、自分のところに借りに来た。
 赤い頭の大きな男が自分の教室に来て、甘えると言いながら自分の教科書を借りていった。
 他の誰でもない、自分を頼ってきた。

 あとで英語も借りに来ると言っていたのを思い出し、英語の教科書と辞書を出して机の角に重ねて置いた。
「流川ー、今は生物だ」
 横を通った教師に言われたので、生物の教科書も一緒に出した。

 予告通り、次の休憩も桜木はやって来た。
 数学の教科書を自分に返しながら、机の端に置かれているもの気づいた。「用意してくれてたんか」と手に取る。
「この後は」と尋ねると「あん?」と聞き返してくる。
「忘れ物。貸すやつ」
 聞いたらまた準備しておく気でいた。どんどん言えばいい。なんでも貸す。
「いや、もうこれで大丈夫だ。もうお前には借りるものはねえよ」
 その言い方にひっかかった。
「他のやつに借りるんか」
「ああ、まあ」
 ムッとした。
「何を借りるんだ」
「まあちょっと」
「俺に言え」
「いやいいって。そうそうお前に借りれねえよ」
「言え」
「いらねえよ。もう洋平に借りた」
 なんで水戸。
 桜木のいる反対側の窓の方を向くと、「おい」と肩に触れてきた。
「怒んなよ」
 その手を振り払って、間を置いて、机に突っ伏した。
「おい」
 揺さぶられたが、起きてやらなかった。
 チャイムが鳴って、「また来るな」と言い残して桜木は去って行った。
 なんで全部自分に借りないんだ、と怒りながら寝た。
 
 昼休憩を知らせるチャイムが鳴って、英語の教科書と辞書を携えて桜木が三たび現れた。
 自分を見て「まだ怒ってるか?」と尋ねてきた。
 もうそんなに腹は立っていなかった。
「もう怒ってねー」
 一度寝たので怒りは和らいでいた。自分にとって睡眠は色んな効果をもたらす。寝ると体力が回復するし、怒りも消える。怒りがおさまる効能は今回知った。
「昼飯行こうぜ」
 誘われたので弁当を持って立ち上がった。

 屋上はまだ風が少し冷たいが二人きりになれるのが良い。
 定位置まで行くと、桜木はキョロキョロと辺りの様子を伺った後、さっと頬にキスをしてきた。桜木の唇が離れたあと、自分も桜木の頬に同じようにし返した。 桜木の体が固まるのを感じながら。
 頭の色まで赤くなった男の隣に並んで座って弁当を広げると、「今日もうまそうだな」と声をかけてきた。桜木の弁当を見ようとして、思い出した。今日は弁当じゃないのだ。だって鞄を忘れたから。こいつは今日本当に鞄を忘れたんだなあとぼんやり思った。
「食うか」と弁当を見せると、「パンがある」と購買で買っていたパンを見せてきた。五つも買っている。牛乳は2パック。
「俺も朝、弁当作ったのになあ」
 大きな口をあけて、コロッケが乗ったパンにかぶりつく。
「はやおきして、弁当箱に白飯詰めて作ったのに、忘れちまった。出がけに急にトイレ行きたくなったのが敗因だ。慌てたからな。バスケグッズは忘れなかったけど後はぜーんぶ忘れちまった」
「まぬけ」
「言うなや」と足をぺちっと叩かれる。
「ベントー、どうすんだ」
 もったいない。
 いつもうまそうなのを作っているのに。
「あれは、今日の夜食べる」
 それを聞いて安心した。

 桜木がまた大きく口をあけて、焼きそばが挟まったパンに食らいついた。こっちもうまそうだなと思った。桜木が食べるとなんでも美味しそうに見えるのだ。
「鞄を忘れるってのは大変なことだ……」
 ぽつりとした呟きが聞こえた。視線をやると、桜木は遠い目をして空を眺めていた。
「調子が出ねえよ。教科書、財布、弁当、 筆箱、 自分のものがないってのは案外不便だぜ。人にいろいろ借りねえといけねえしな」
 それを聞いて思い出した。
「さっき、何借りたんだ」
 桜木が自分を見てきた。
「水戸に借りたもの」
「ああ、昼飯代だ」
「俺だって金持ってる」
「そりゃそうだろーけど」
 言いにくそうに、伸ばしていた足のつま先を擦り合わせている。
「なんで俺に借りねーんだ」
「お前には金は借りたくねえんだよ」
「水戸に借りてえのか」
「いや借りてえってことはないけど。って言うか金なんて誰にも借りたくねえよ」
「じゃあ借りるな」
 そう言うと呆れた顔になる。
「あほか。そしたら俺、昼飯食えねえだろうが」
「だったら俺に借りろ」
「だから、お前には借りたくねえんだよ」
「なんで」
「なんでじゃねえよ。なんでわかんねえんだよ」
 桜木が苛立った声を出したので、足を蹴ってやった。
「イッテ! じゃあ逆に考えてみろよ。お前に金が全然ない時、お前は俺に借りるか?」
 そんなこといきなり言われても考えた事がないから分からなかった。
「わかんねーし」
「想像してみろよ。いいか? お前めちゃくちゃ腹が減っているんだ。ふらふらなくらい腹減ってんだ。でも金がねえんだよ。そこへうまそうなラーメン屋が目の前に現れる。そしてその前に俺と洋平がいるんだ。お前だったら、どっちに金を借りるよ」
「テメー」
 当たり前だ。何を言っているのだ。
「……例えが悪いな。俺とリョーチンだったらどうだよ」
「テメー」
「俺と彩子さんだったら」
「テメー」
「毎回俺か」
「テメーだ」
「あ、そお……」
 変なものを見るような目で見つめたあと、ふっと息をついて前を向いた。
「たまに俺とお前って全然違うんだなあって思う時があるわオレ」
 それはなんだか悲しい知らせのように聞こえた。
「…………気が合わねえってことか」
「いや、そうじゃなくて、気が合わないとかじゃねえけど、違ってるんだよ、俺とお前は」
 そこまで言って自分の顔を見た後、急に焦った様子で「それが、おもしれえってことだぞ!?」と付け足した。
「面白いんか」
「そうだそうだ。違っているのが面白いんだ」
 面白いのならいい。満足しながら母親が作った卵焼きを食べた。もう一個あったのを桜木にやろうとすると、口を大きくあけてきたのでその中に放ってやった。
 口を動かしながら「やっぱうまい」とうんうん頷いている。
「今度は俺に借りろ」
「えー」と顔をしかめる。
「俺に借りろ。ぜんぶ借りろ」
 もう一回言うと、呆れたような諦めたような顔で「わーったよ。お前にぜーんぶ甘えるよ」と言った。

おしまい


桜木花道さんお誕生日おめでとうございます。
「流川に甘える花道」というお題を頂いたのですが、こんなことになってしまいました。
ぐいぐいいく流川。
途中のぐるぐる回っている変な会話。
流川主導になるとこういうことになるのかもしれません。
久しぶりに高校生花流を書きました。
二人はいいなあと思いながら書かせていただきました。


2019年4月1日