花咲く旅路15

 肩に埋められていた流川の頭が動いた。自分を奮い立たせるかのように俺の肩に額をグリグリと押し付けてから、流川は顔を上げた。もういつも通りだった。スッと表情の読めない、迷いや悩みなんて一つもなさそうな顔をしていた。
「仕事」
「行くのか?」
「そう」
 行っちまうのかよ、と思った。流川はどうかは知らないけど、俺はまだ一緒にいたいと思った。自分の気持ちを伝えた直後だ。気持ちが高ぶっていて、落ち着かない。この後いつも通りに、オースケと遊んで過ごしていられる自信がなかった。
「……行かなきゃならねえのか」
 流川が目を丸くした。それを見て慌てて「いや、なんでもない。言ってみただけだ」と冗談にした。
「今日は、撮影とかが、あるから」
「分かってる。行ってこいよ」
 俺の言い方がどう伝わっているのか、流川が気遣うような目で見てくる。しまったな、と思った。あまりに子どもっぽいことを言ってしまった。
「ほら行けよ」
 送り出そうと声を掛けるのに、流川が動かない。じりじりとした俺たちのやりとりを聞いていたのであろうオースケが、「おるすばんがいや?」と聞いてきた。
「え?」
 オースケを見ると、眉をハの字にして、まるで俺を心配するように見ていた。
「はなみちも、つれていってもらえば」
「どこに」
「しょくば」
「職場って」
 呆気にとられる俺に「ぼくいったことあるよ。どうしても、おるすばんができないとき」とオースケは続けた。
 ……お留守番が出来ない。妙にしっくり来る表現だな。今度は流川が「来るか」と言ってきた。その目にからかっているような様子はなかった。
「おとうさんやさしいから、はなみちもつれてってくれるよ」
「……いや、別にそこまで」
「ね?」オースケが流川に言うと、流川はすぐに「連れて行く」と頷いた。オースケの顔がぱっと明るくなる。
「いこっ!」
 気づいたら、「じゃあまあ行ってみるかな」と言っていた。断らない自分に驚いた。

 オースケを連れて部屋に戻り、身支度を整えた。なんせ俺は部屋着のままだったから。外着といえるほど立派なものでもないが、持っている中で一番くたびれていないパンツに履き替えた。オースケと順番にトイレに行ってから、上着を着て、オースケには持ってきていたカバンを持たせる。部屋を出ると、流川の車がアパートの前についているのが見えた。車の近くに立っていた流川と目が合って、俺の胸が高鳴った。まるで「お出かけ」みたいだ。オースケが嬉しそうに階段を駆け下りて、「こっちだよ!」と俺に手を振ってくる。後部座席のドアを両手で開けようとするのを、流川が手伝う。勝手知ったる様子で、シートに備え付けられた座椅子みたいなものに乗り上げて、慣れた手つきで自分でベルトをはめた。オースケのシートベルトの位置を確かめるように触ってから、流川は運転席に回った。俺はどうすりゃいいんだ。取り残されていると、「はなみちもすわって!」とオースケが言ってきた。
「どこに座ったら良いんだよ?」
 身をかがめて、小声で尋ねると、「ぼくのとなり!」当たり前のように指定されて、ホッとする。さっきからオースケにリードされている。弟にでもなったような気分だな、と自嘲しながら、反対側に回ってオースケの隣に乗り込む。車の中は、見た目以上にオースケ仕様にしてあった。カラフルなプラスチック製のおもちゃが転がっていたし、ウェットティッシュや小さなゴミ袋がオースケの席のそばに備え付けてあった。流川とオースケの生活の一端が見える、いい感じの車だ。オースケが俺を見ていることに気がついた。
「なんだ?」
 オースケは、嬉しくてたまらないという顔をしていて、つられてこっちも笑顔になる。
「おでかけだね」
 さっき俺も同じことを思った。「そうだな」と同意すると、今度は前方から視線を感じた。バックミラーで流川と目があった。
「なんか、タクシーに乗ってる気分だ」
 俺が言うと、流川が柔らかく目を細めた。
「しゅっぱつだ!」というオースケの声と共に、車が動き出した。

 流川の職場の練習場である体育館は、うちから車で小一時間くらい走ったところにあるらしい。毎日そんなに時間をかけて行き帰りをしているのか、と驚いた。オースケは最初は興奮気味でひっきりなしに喋っていたが、今は静かに眠っている。話し疲れたようだった。
「ずいぶん遠い場所にあるんだな」
「ああ」
「通うだけで疲れるんじゃねえか?」
「たいしたことねえ」
 我慢強い奴だな。高校の時もそうだった。恐ろしく無口で、不平不満の類を言わない奴だった。
「もっと近くに住めば良いんじゃねえのか?」
「……」
「住んでたのか?」
「部屋は借りてる」
「今もか?」
「そー」
「なんでそこに住まねえんだよ」
「帰ってこいって言われて」
「誰に?」
「……」
 流川相手にしてはテンポ良く進んでいたが、ここに来て止まった。流川の周囲の話になると、なかなか見えてこない。窓の外に視線を移すと、小さく「家族に」と聞こえた。続ける気はあるようだ。
「家族って、お母さんか?」
「……じゃなくて」
 ドキッとする。誰のことだろう、と少し身構えていると、「ねーちゃん」と聞こえた。ああ、なんだ、と脱力する。
「ねーちゃんに帰ってこいって言われたのか」
「だけじゃねえけど」
「ふーん……」と、見たこともない流川の姉ちゃんの姿を思い浮かべる。
「お前、結婚しろって言われたり、家に帰ってこいって言われたり、なんでそんなに色々言われるんだよ」
「……たぶん」
「なんだよ」
「春から、オースケが小学校に入るからだと思う」
 言われて初めて気がついた。そういえばオースケは6歳だ。子どもとは無縁の暮らしをしていたので、そういう事がすっかり頭になかった。そうか、小学生になるのか。健やかな寝息を立てるオースケにじんわりとする。
「ランドセルとか背負うのか……コイツがなあ」
「ああ」
「でも、オースケが小学生になるからって、それでなんで口出しされるんだよ」
「……頼りないから」
「誰が」
「俺」 
「お前、頼りないのかよ」
「そーみてえ」
 淡々と、他人事のように流川が答える。そんなことないだろ、しっかりやっているだろ。そう言いたかったけど、これは家族の問題だ。家族には部外者には見えない事情ってのがある。そういうのを無視して首を突っ込むと面倒なことになる事が多い。良かれと思って加勢したのに、かえって傷つけることもある。家族の問題はややこしい。だから俺はそういうのは口出しをしないことにしている。俺の処世術だ。でも今は、ちょっとした反抗心もあった。だから、「お前はけっこう、ちゃんとしてると思うけどな」と言っておいた。独り言のように、でも流川にも聞こえるように言っておいた。流川の返事はなかったけど、伝わったと思う。

***

 練習場に着くと、流川は事務に呼び出されているとかで俺達と別れた。俺とオースケは体育館に向かった。オースケは何度も来ているからよく知っているらしくて、建物の中を案内してくれた。トイレのスリッパの履き方まで教えてくれた。
 体育館に足を踏み入れた時は、懐かしさで胸が一杯になった。久しぶりにこういう場所に来た。高校以来だ。バスケ……人生で一番夢中になったものだ。体育館の匂い、ボールの音、照明の色までもが懐かしい。感傷に浸っていると、「あら、おーちゃんだ」と聞こえた。目をやると、ジャージを着た女性がにこやかにオースケに話しかけていた。
「こんにちは」
 オースケが行儀よく頭を下げている。目があったので、俺も軽く会釈をした。「こんにちは」と言われたので、「どうも」と返す。女性の目には、「あなたはこの子の何ですか」と書いてあった。何て言えばいいんだろうな、と迷っていると「私は、チームのマネージャーです」と先に自己紹介をされた。
「桜木です」
 とりあえず名前を伝えておいた。その後を続けない俺に疑念が膨らんだのか、「おーちゃんのお友達?」と今度はその人は、オースケに尋ねた。聞かれたオースケが俯いて、「うん」と小さく答えた。それから俺の方をちらっと見て、「いちばんのともだち」と付け加えた。それを聞いて女性の表情が和らいだ。
「おーちゃんの一番のお友達なんだね」
 その女性が繰り返すと、オースケは恥ずかしかったのか、俺の後ろに隠れた。オースケの姿を見て、女性は笑って、そのまま「恥ずかしがらせてしまいました」と話しかけてきた。それから少し話をした。その会話の中で、流川の高校時代のチームメイトだったことを伝えておいた。選手に呼ばれて、その人は「じゃあ」と立ち去った。オースケが見知らぬ大人といるのを見て、心配して来たんだな。疑われた身でありながら、えらい人だなと感心した。俺もちゃんとしねえとな。少なくとも何者かと聞かれて、オースケとの関係を説明できるくらいにはしておきたい。「一番のお友達」というのは、オースケが言うのは微笑ましいが、俺が言うのはちょっと違うだろう。しかし、一体何という関係なんだろうか。何というのが一番良いのか。考えても分からなかった。流川に今度聞いてみよう。
 オースケはちょっとした人気者で、コートの端に立っていると、入れ代わり立ち代わりいろんな大人たちが挨拶をしに来た。その中には流川のチームメイトもいた。そいつらとの話で、流川が今シーズンを休んでいることを知った。言われてみれば当たり前のことだった。毎日練習には行っているが、選手にしてはあまりに時間に余裕がありすぎる。流川はセーブしていたんだなと軽く衝撃を受けた。流川の復帰は、チームもファンも、誰もが待ち望んでいるという話だった。俺はそれを聞きながら、流川もなんじゃないかと思った。流川がそんな事は言ったことがはないけれど。
 それからしばらくして、流川も出てきた。練習着に着替えて、ボールをついて現れた流川の姿を見て、俺は息を呑んだ。正直に言うと、かっこよかった。凛々しくて、ドライでクールな空気をまとっていて、ああ、これが流川だ、と思った。再会してから今日まで、親としての流川ばかり見ていたから忘れていたが、流川はこういう奴だった。俺の記憶にある流川は、間違いなくこの流川だ。チームメイト達の視線を受けながら、流川はまっすぐ俺達の方にやってきた。オースケが流川の足に抱きつく。流川の雰囲気がふっと変わった。親モードに切り替わった。それが妙に嬉しくて、でも少しだけ残念でもあった。
「なんか、久しぶりに見たな」
 流川が不思議そうな顔をしたので、「そういうカッコ」と付け加えると、流川は自分の姿に目をやってから「ああ」と、事も無げに頷いた。
「今から、取材とかがある」
 流川の目線を辿ると、記者っぽい格好をした奴が選手にインタビューをしていた。隣にカメラマンもいる。流川もあれをされるということなんだろう。
「大丈夫か」
「何がだ?」
「オースケ、見てもらうことになる」と言ってきた。何を今さら、と笑い飛ばす。
「俺達はその辺を探索しとく」
 オースケに「な」と同意を求めると「うん!」と快諾した。
 流川が何か言いたげにじっと見つめてきた。
「どうしたよ」
「……ありがと」
 まさかここで礼が来るとは思わなかった。
「急になんだよ。いきなり礼とか言ってんじゃねえよ」
「見てもらってるし」と言いながら、オースケの頭を撫でる。
「俺も、そいつが可愛いから良いんだよ」
 流川は唇をぎゅっと結んで、熱のこもった目で俺を見てきた。
「何時くらいまであるんだよ」
「十二時くらい」
「だったら、それまではしっかりバスケしとけ」
「ああ」
 取材チームが来るのが見えたので、「じゃあな」と俺はオースケとその場を離れた。オースケは流川と離れるのも嫌がらないで、素直に俺に手を引かれる。見下ろすと、すぐに顔を上げてくる。その目には何の疑いもなかった。俺のことを信頼しきっている。ふと、さっき見た流川の姿を思い出した。あいつは、もっとバスケがしたいんじゃないだろうか。高校時代の、俺が知っている流川は、寝ても覚めてもバスケのことしか考えていないような奴だった。本当は今もそうなんじゃないのか。我慢しているんじゃないのか。オースケが、流川のキャリアの足枷になってるんじゃないか。そんな考えが頭をよぎった。嫌な考えだ。でも、考えずにはいられない。キャリアなんてものとは関係のない俺でも浮かぶようなことだ。それなのに、まさにキャリアを積んでいるような流川に浮かばないわけがない。流川は今のこの状況を一体どんな風に感じているんだろう。あいつはもしかして我慢をしているんじゃないのか。突然、クイッと服の裾が引っ張られた。
「あそこにジュースがあるよ」
 オースケがジュースの自販機の場所を指さした。
「なんだ? 飲みたいのか?」
「……あとでのみたい」
 遠慮がちに言うオースケを見て、そのいじらしさに胸が熱くなる。オースケが可愛いのは間違いない。流川だってそのはずだ。でも本当は同じくらいバスケもやりたいんじゃないのか。あいつは間にいるんじゃないか。俺が思うよりもずっと苦しんてるんじゃないか。繋いでいた手に力がこもる。
 オースケが不思議そうに俺の顔を見上げてきた。どっちも大事にさせてやりたい。未だかつて味わったことのない気持ちが、沸き上がってくる。俺は変わってきているんだなと思った。

つづく

2025年10月11日 花流の日 
花流の日おめでとうございます。
前回から2年以上あいてしまったのですが、
この3人が動いてくれて、嬉しいです。
読んでくださって本当にありがとうございます。
書き終わって、じぃ~んとしていました。