ナイスアシスト

 グラグラと体が揺れている。揺れていると言うか揺さぶられている。
 目を開けると流川が変な顔をして俺を見下ろしていた。
「なんだよ」
 部屋の明かりがきつくて目を眇める。
「時間、やべーんじゃねーの」と流川が言った。
 え?
「えっ!?」
 傍らにある時計を掴むと七時四十分を指していた。いつも起きる時間より一時間以上遅かった。
 ベッドから飛び出る。動揺でそこら辺を一周しながら、とにかく着替えだ、と思った。夜に準備していたティーシャツと黒のジャージを掴み、着替えながら居間に移動する。その間に、どうやって行くかの算段をつけていた。いつもは歩いて三十分の距離だが、今日は自転車にしようと決めた。バスも考えたが混んだり待ったりの諸々を考えると、俺が全力で、死に物狂いで自転車をこいだ方が速い気がした。そうとなれば次にすべきは朝飯だ。食べないと力が出ない。やかんを火にかけて湯になるのを待つ間に、リュックサックに荷物を詰めていく。水筒、タオル、財布・・・・・・シュンシュンと音が聞こえて急いでガスレンジに戻る。インスタントの味噌汁を棚から出していると、流川が寝室から出てきた。
「すっげえ寝坊したっ!」
 報告すると、流川は頷いた。
「お前に起こされなかったら、やばかった」
 流川はまた頷いた。
「とにかく急いでっから、自分のメシは自分でやれ! 後で一人でゆっくり食え!」
 今度の流川は首を横に振った。
「自分でやれって!」
 もう一度首を振られた。
「ワガママ野郎! 急いでるのにっ!」
 叫びながらも二人分の椀を出す。仕方ないから! 味噌と具を入れた椀に湯を注ぎかけた時、嫌な音が聞こえた。この音はもしや・・・・・・。寝室に移動して窓の外を見ると、案の定雨が降っていた。あらゆるものの輪郭がぐんにゃりして見える、とてつもない勢いの雨だった。
「・・・・・・マジか」
 呆然と立ち尽くす。『遅刻』という文字が浮かんだその時、「送ってってやる」と聞こえた。
 振り返ると流川が立っていた。
「送ってくれるんか?」
「車出す」と頷いている。
「仕事は」
 心配する俺に「ダイジョーブ」と流川は言った。
「ほんとか?」 
「全然大丈夫」
 後光がさして見えた。俺は手を合わせた。とてつもなくありがたい申し出だった。

***

 今日の雨は本当に凄かった。凄すぎて傘に穴があきそうなくらいだ。アパートから駐車場までの道を、リュックサックを前に抱えて傘から出ないように身を縮こまらせて歩く。排水が間に合わないのか、道がチャポチャポしている。靴の中にぬるい水が入ってきて気持ちが悪い。替えの靴下を持ってきて正解だった。半歩先にいる流川は上下グレーのスウェットを着ていた。部屋着のままだ。着ているもののせいもあるのだろうが、こんな雨でも流川はいつも通りに見えた。雨なんてなんでもないように歩いている。いつだってマイペースだ。そう言えば、流川の口から雨だからどうだとか晴れだからどうだとか聞いたことがない。雨とか晴れとか、天気について何か思ったりすることはあるのだろうか。最早マイペースを極め過ぎて天気など関係ない境地に達しているのではないだろうか。気になった。
「なあ、雨の日と晴れの日、どっちが好きだ?」
「・・・・・・」
 返事はなかった。ビー玉が落ちて来ているみたいな雨で、俺の声もすっかりかき消されている。聞くのは止めにした。

 車が見えて、逃げるように飛び込んだ。
「ふーっ」と息をついていると、後部座席に傘を放って流川も乗り込んできた。
「すげえ雨だな」
 流川の髪から水が滴り落ちる。頭だけじゃない、体全体が濡れていた。
「お前傘さすの下手だな」
 リュックからタオルを取り出して拭いていってやる。大人しくされるがままになっていたが、拭き終わった後「テメーも下手」と言ってきた。自分の体を見ると俺も思いっきり濡れていた。
「俺らには傘が小さいんだよな」
 タオルで体を拭きながら、「この時間、いつもの通りは混むぞ。雨だし」と伝えると、「違う道行く」と返してきた。何度かうちの学校に来たことがあるので、道は知っているようだった。
「頼むな。お前に俺の全てがかかっている」
 返事をする代わりに、流川はシフトレバーに手をかけた。それを見て俺もシートベルトを締めてリュックを前抱きにした。出発だ。

「振り払っても振り払っても凄い雨」
 ワイパーが大忙しだ。少し先で水が大きくザブンと波みたいに上がるのが見えた。
「うえっ」
 あそこは道路の縁に水がたまるのだ。雨の日にあそこを歩いて、頭から水がかかってえらい目に遭ったことがある。水丸かぶりの苦い出来事を思い出していると、流川はその場所で少し速度を落とした。おお、分かっているな、やるじゃねえかと流川を見る。いつになく凛々しい横顔をしている。
「車の運転の時はシャンとしてるよな」
「いつもしてる」
 俺の言い方に引っかかりを覚えたのか異議らしきものを唱えてきた。
「でもチャリの時はやべえぞ」
「そんなことねー」
「そんなことある。高校の時とか、お前のチャリに何度轢かれかけたか」
「そんなことねー」
 そんなことは沢山あったんだけどな。だがまあ深く掘り下げる話題でもない。
「お前って雨と晴れどっちが好きだ?」
「晴れ」
 即答だった。
「え、そうなんか」
「あたりまえ」
「なんで晴れのほうが良いんだ?」
「雨メンドくせーし」
「いつもはそんなこと全然言わねえじゃねえか」
「言ってもしょーがねーし」
「ほぉ」
 流川の返事に妙に感心しながらシートに背中を預けた。
 確かに言ってもしょうがないことだ。そうかあ、流川は言ってもしょうがないことは言わないのか。そうか、そうなんだな・・・・・

 いつもの道が見えてきた。制服を着た生徒たちがちらほら見える。間に合った。さすが車は速いな。
「そこの角のあたりで降ろしてくれ」と頼むと徐行しながら道の端に車を寄せた。
 シートベルトを外しながら、「ありがとな」と礼を言う。
「お前のおかげで、遅刻という最悪の事態を免れた」
「帰りは」と俺を見てきた。帰りの迎えも来てやろうかという申し出だ。今日は親切だ。
「帰りは大丈夫だ」
「ふぅん」
 流川が前に目をやるのにつられて俺も見た。雨足は強くなる一方で、フロントガラスを通して見える世界は相変わらずぐんにゃりしていた。俺は心配になった。
「家に帰ったら連絡しろよな。着いたら教えろ」
「分かった」
 そう言いながら、流川はハンドルに腕を交差してかけた。体を前に倒して手の上に顎を乗せている。
「気をつけて帰れよ」
「ああ」と顎を乗せたまま頷く。
 急に、凄く離れ難くなってしまった。
 今日はもう全部なしにして、二人でいたい。
 流川とずっと二人でいたいと、そう思った。
 何だこの気持ちは。襲ってきた感情に戸惑ってしまう。
「遅れるぞ」
 流川の言葉で我に返って、ぐっと腹に力を入れる。
「おう! じゃあな!」
 強い意志を持って外へ踏み出した。

 学校へ続く道を早足で辿りながら、曲がり角でまた気になった。
 そっと振り返ってみると車はまだいた。雨のガラス越しに流川と目があった気がした。持っていた傘を振ると、流川の手が小さく動くのが見えた。

おしまい

6月といえば梅雨だから、雨が書きたいなと思って。
書けてよかったです。
今月も読んでいただいてありがとうございました。

2020/06/28