②キツネが眠れないこともあるんだぜ、花道。


 楓が熱を出した。
 風邪ではない。
 風邪のような病気の類をあまりしない子である。
 そんな子が熱を出した。
 彩子には思い当たる原因がある。
 先日、赤木家の親戚のもとに楓を連れて挨拶にまわったこと、間違いなくそれが原因だ。
 緊張したのだ。楓がじゃない、母親である自分が、だ。
 親戚の家に挨拶に回るということは、赤木は必要ないと言ってくれたが、それは彩子を気遣って言ってくれていることに過ぎず、赤木は本来そういうことはきちんとしておきたい人間であることを彩子はよく知っていたし、しなければならないということも彩子は分かっていた。
 彩子は甘やかされたり、逃げたりすることは嫌いだったので、潔く挨拶に回ることを決意した。
 しかしそうは言ってもいやなものはいやなのであり、決意して以来、彩子がひどく憂鬱であったことは否めない。
 もちろん、結果的には、赤木の親戚であるくらいだから、 良い人たちばかりであったし、ほとんどの心配は徒労に終わったが、けれども、 最後にまわった家だけは、お世辞にも良いもてなしを受けたとは言えなかった。 自分の存在を良く思っていないことを正面切って言われたのだ。
 子連れで妻になるという自分の立場を良く思わない人がいることは重々承知していたし、 そんなことで、めげたりするような性質ではないが、それでもやはり、きつかった。
 救いは、楓がいなくなった時を見はからって、言ってくれたことか。
 楓に対して何かされたらそれこそ黙っていはいなかったが、それはなかった。
 だから、彩子はその親戚ともこれからなんとかやっていけると思った。
 楓がいない時を選んだ事、あえて本音をぶつけてきたことを、彩子は、その家の誠実さであったとうけとることにして、 彩子は赤木には言わなかったし、もちろん、傷ついた様子だっておくびにも出さなかった。
 なのに、楓は気付いた。
 いや、気付いたというより、もっと楓の本能的なものが反応したのだろう。
 母親が緊張していたこと、傷ついたことを、知らぬ間に察知して、そして、気付いていないからこそ、発散することもできないまま抱え込んでしまい、熱を出したのだと思う。すべて、彼の知らないところで、体が勝手に反応してしまった事なのだろう。
 楓の発熱の原因は、ほぼまちがいなく自分にあるのだと、彩子はそう結論付けていた。

「眠れない?」
「ねむれる。」
 真っ赤な顔でふうふう言いながらそんな強がりを言う。
 発熱のための汗でおでこに張り付いた髪をよけて、手をあててみれば、相変わらず熱は高い。
「ごめんね。」
「……なんで」
 そんな風に問い返されると何も言えなくなる。
 彩子は急に不安になった。
 自分は母親として、これから、4人の子ども達を育てあげることができるのかと、ひどく不安になった。
 ひとりぼっちであるような気がした。
 そんな風に珍しく彩子が落ち込みかけたとき、
「ただいまーーーーー」
 末っ子が元気良く戻ってきた。
「あ、帰ってきたわね。おかーさんちょっと行って来るね」
 目だけで頷く楓の頬を撫でようとしたが、しかし、その手はためらわれた。
 自分の中に渦巻く不安が、楓に触れることでまた伝染するのではないかと怖かったから。
 彩子はとても臆病になっていた。

***
「おかえり。」
「ああああやこさ……おかーさん。ただいま。」
 学校から帰って、おかーさんが家にいるという状況になかなか慣れない花道は、 いまでもただいまを言う時、ついつい赤くなってうつむいてしまう。
「今日のおやつはプリンよ」
「てづくりプリン?!」
 花道は彩子の手作りプリンが大好物なのである。
 太陽のよう明るい笑顔で聞いてくるもんだから、彩子もついつい嬉しくなって微笑んでしまう。
「今日はふたつ食べて良いわよ」
「やったー!ミッチーの!?」
 どうしてこの子はヒサシにだけこうなのかしらと苦笑しながら、
「おにーちゃんのはおにいちゃんの。楓のを食べていいわよ。」
 と言ってやると、花道の反応は、意外なものだった。
「……ルカあわわわ、キツネ!!!あいつ、まだ、びょーきなの?」
「うん、まだ熱が下がらないの。プリン食べれそうにないから、花道、食べちゃってよ。」
「……でもあいつ……プリン好きだし……」
 彩子はちょっとだけ驚いた。いつも喧嘩ばかり吹っかけてる花道だからそれこそ大喜びで食べると思ったのに、なぜか渋っているのだ。
「いいのよ。熱、下がりそうにないし……。」
「……いい。おれ、ひとつでいい。」
「でも……」
「おれ、おなかいっぱいだし。ひとつでいい!」
「じゃぁ、かばん置いて、手を洗ってらっしゃい。」
「はーい!」
 楓用のプリンはきっと無駄になるけれど、花道の気遣いを彩子は嬉しく思った。

***
 
 花道は自分の部屋へカバンを置きに行く途中、布団がずれる音を、耳にした。
 はっと立ち止まり、じっと目を凝らして音のした奥の部屋の閉じられたふすまを見る。
 閉じられているので何も見えないのだが、花道はそれでもじっと見ていた。
 ふすまの向こうには、騒々しい子ども部屋から隔離された楓がいるのだ。
「キツネ……」
 そんなことをつぶやいた自分に驚いて、別にしんぱいしてねーけど、と頭をフルフル振って、部屋に行きカバンを置き、手を洗い、それから彩子の待っている居間に戻ろうとする。しかしその途中、またしても音がした。気にしたくないのに気になってしまう花道は、あきらめて部屋の前に行き、ふすまに耳をあててみる。
 小さな小さなため息が聞こえてきた。
 こっそりとふすまを開け、片目で中を覗いてみると、 思いもかけず黒い瞳と目が合って、びっくりした花道は、パシッとふすまを閉じる。
 なぜかとてもどきどきして。
 どきどきしたままつったっていたが、むずむずとしてきたので、もう一度耳をふすまにあててみる。
 えらく静かなのが気になって、そろーっとあけてみると、またしても黒い瞳と目が合った。
 楓が顔だけふすまの方に向けて、ずっとこちらを見ているのだ。
 今度は、花道は、閉じずに思い切りあけて叫んだ。
「なんでおきてんだ!」
「うるせー」
 いつもと同じセリフを言うのに、今日のキツネは、いつもよりも声が小さかったし、 顔が赤くてつらそうで、それが花道をひどく動揺させた。
「……しんどいんか。」
「ぜんぜん。」
「つらいんか。」
「つらくねー。」
「またつよがりいいやがって!」
「うるせー。」
「ねてないと、なおらないんだぞ。」
「ねむたくねぇ。」
「おまえがそんなことあるもんか!」
 ムッとした楓は、ぷいっと花道のいる方とは逆の方向を向く。
「ねむれねーのか?」
「……」
「こわいゆめみんのか?」
「…………」
 楓の無言は肯定だということを、花道はもう知っていた。
「ミッチーがさぁ……」
 そう言いながら、花道は楓の横にごろんとなる。
「おまえ、なんで、ミッチーがミッチーっていわれるかしってっか?」
 話を振られて、再び楓がこちらを向く。
「しらねー。」
「ミッチーな、おれがまだほいくえんに いってるときにな……」
 ミッチーのあだ名の由来を教えてやっている間中、楓は返事こそしないけれどじっと話に耳を傾けていた。
 それに気を良くした花道は、それ以外にも、ミッチーの色々なお話を聞かせてやった。その間も、楓はじっときいていた。
「な!ミッチーって、ヘンだろ!」
 こくんと頷く。
「でもミッチーすごいときもあるんだぜ!タモリのマネがうまいんだ!おまえ、タモリ、しってッか?」
「……チョット」
「そうか!じゃぁこんどやってもらえよ。すっごいおもしろいんだぜ! リョーチンが、ミッチーのとなりで”いいともせーねんたい”のまねをしておどってるんだぜ! おねがいしたらやってくれるぜ。ミッチー、ああみえて、サービスセイシンがオオセイなんだって! リョーチンがそういってた。だから、おねがいしたらやってくれるんだって!おめーもみてーだろ?」
 楓がタモリを知ってるはずもなく。
 ヤモリのマネをするミッチーの隣でなぜリョーチン が踊るのか、楓にはその意味がよく分からなかったのだが、 花道があまりにも楽しそうに言ってくるので、「ん」と、頷いておいた。
「そうだろ?な?きっとやってくれるぜ・・・あー・・はやく、おまえなおらねーかなーー」
「もうなおった。」
「ウソ言うなよ。かおまっかっかだぞ。」
「……みまちがい」
「おまえ、ばかだなぁ。ほら、もうねろよ。もうねれるだろ?」
 ぽんぽんと布団を叩いてきいてみる。
 どうやら一連のミッチー話は、花道なりに楓が眠れるようにと気遣って聞かせてやっていたらしい。
「……」
「もうすこしミッチーのはなししてやろうか?」
 楓がそれは嬉しそうに笑ったから、花道はたまらなくなって、とっておきのミッチーには口止めされているおはなしまで出して、 楓を喜ばせてやりたいと思った。
 後からミッチーからくらうげんこつは覚悟の上で。
 サービス精神が旺盛なのは、この兄弟に共通する特徴なのだ。
 
 それからもしばらくミッチー話をして、いいかげんしゃべりすぎて疲れてきた花道は、「でもミッチーやさしいとこもあるんだぜ」と目をこすりながら楓を見やれば、楓はいつの間にかすーすーと寝息を立てて眠っていた。
 その様子に花道は、満たされた気持ちがしてにっこり笑った。

 手を洗いに行くと言ってから、しばらく経っても戻ってこない花道を不思議に思った彩子は、 花道を探しに行った先で思いがけない光景にであった。
 花道と楓が並んで、寝ていたのだ。
 彩子の口から思わず「まぁ!」とでた。
 どうして2人がそんな風になっているのか、彩子には容易に察しがつき、そして彩子はそれがとても嬉しくて、嬉しくて、嬉しくて。
 花道のからだに毛布をかけてやって、それから愛しいこども達の頭を交互に撫でた。
 その手がためらわれることはもうなかった。