授業中はいきなり高校ってのも難しいだろうってことで、当面の間は保健室で過ごすよう言われていた。家で一人でいるのも退屈だったので俺は素直に従って保健室登校をしていた。保健室では保健室のおばちゃんセンセが茶を出したりしてくれて、俺はいろんな世間話をした。居眠りもした。そして勉強。これもせざるを得なかった。たまに大きなゴリラみたいな男が「やっとるか」と現れるのだ。三年生で元バスケ部員のこのゴリが自分が自習時間で余裕があるときなんかには俺を見にきて有無を言わさず勉強をさせた。最初はあまりにでかくて不覚にもビビってしまったが、おっかないけどえばってはないので、晴子さんの兄ということ以外はけっこう早く馴染んだ。ゴリと呼ぶたびにゲンコツが落ちてくるのにも慣れた。頭がジンジンして痛いのに、妙にくせになるげんこつだった。それからメガネをかけた元バスケ部のメガネくんも「やってる?」とやってきた。いつもにこにこしている。ゴリが理系ならメガネくんは文系だった。このメガネくんはゴリよりもっと色々なことを教えてくれた。現代史と称して流行のテレビや芸能人、伝説のアトランティス大陸、湘北バスケ部の七不思なんかも話してくれた。そのメガネくんから流川が近々アメリカに行くというのを聞かされた。
「アメリカに行くってほんとか?」
その日の夜も流川はやっぱり部活帰りにうちに寄っていて、横になっていた。俺が尋ねると、テレビを見ていた顔を俺に向けて「ああ」と言った。
「アメリカ行くんか!」
「ああ」
驚きのあまり二度聞いてしまった。アメリカに行くなんて言ってるくせにこたつでまるまっている奴をしげしげと眺める。こんな、始終こたつの中にいるようなのが外国に行くなんてとても信じられない。
「アメリカって外国だろ。そこんとこちゃんと知ってんのかよ」
「知ってる」
さらに疑いたくなるような返事だった。でもまあかくいう俺もよく知らない。
「アメリカ・・・・・・アメリカな・・・・・・一四九二年、コロンブスが卵を発見した大陸」
流川が変な顔をして「そーだっけ」と言っている。
「一四九二年、意欲に燃えるコロンブスって覚えるんだぞ。へへへ、すげえだろ、今日メガネくんが教えてくれた」
「木暮さんか」
「メガネくんだ」
「そうか」と流川は頷いた。
「アメリカ、なにしに行くんだよ」
「バスケしに」
「え、バスケしに行くんか?」
「したり、ゲームを見たり」
「なんだよそんなのジャパンでもできるじゃねえか」
「あっちが本場だ」
本物志向か。冗談とか言うようなタイプじゃないし変なほらを吹くような奴でもない。それにこいつのバスケ好きは本当だ。見てたらわかる。流川は本当にアメリカに行くのだ。
「そっか・・・・・・アメリカ行っちまうんか」
寂しい。一週間とちょっとくらいの付き合いだけど、記憶を失ってここまでずっと一緒にいた。いなくなるのは寂しい。
「アメリカでバスケットボールの選手になるんか?」
みかんの皮をむきながら心なしか上目遣いで尋ねてしまった。
「そうだ」
言い切った。夢っていうより予定のように聞こえた。
「いつ行くんだ」
「冬休み終わったら」
「もう後ちょっとじゃねえか!」
びっくりして叫んだら流川は頷いた。そんなに早くいなくなるなんて、目の前が真っ暗になった。俺、こいつがいなくなったらどうなるんだろ・・・・・・。
「一週間くらいいる」
えっ!
「帰ってくんのか?」
「当たり前だ」
「な、なんだ!びっくりさせんな。ずっと帰ってこないかと思ったぞ」
良かった良かった。今回は様子見ってことか。そりゃそうだよな、学校どうすんだっつう話だし。なんで帰ってこなくなるなんて思ったんだろ。普通帰ってくるだろ。そうだ。帰ってくるならいい、それならいいんだ。大楠とかだってばあちゃんちに行ったりして、夏に長いこといなくなることあるし。うんうんと納得しながらみかんを食っていると、流川が物を言いたげに見つめてきた。
「あいつもそう言った」
「なに?なんて?」
「帰ってこないって、あいつも言った」
あいつってあいつか。高校ヤローか。俺は高校の自分をそう呼んでいた。俺は前の俺にはちょっと敵対する気持ちがあった。皆が皆、高校の俺を求めるから、その反動だ。
「高校ヤローが言ったんか」
流川は頷いた。流川は俺の使う言葉がすぐに伝わる。俺だって流川の話し方のくせを大分把握していた。表情だって随分読めるようになっていた。だってそうだ。ずっと一緒にいるんだから。
「ニュー俺と高校ヤローは違うぞ。俺は、お前が帰ってこないとは思ってねえぞ。お前が帰ってくるって言うならそうなんだって思う」
そう言っても流川はまだ俺を見ていた。何か聞き出そうとしているような目だった。流川の質問は終わっていないのだ。でも流川は俺に聞いているんじゃない、俺の中の俺じゃない奴に聞いているような気がした。俺は視線を逸らした。
「分かんねえよ、高校ヤローが考えてることなんて」
それからちょっとだけ高校ヤローと流川の話を聞き出した。高校ヤローと流川はケンカをしていたらしい。アメリカに行く流川に俺が「お前は帰ってこない」とかなんとか言ったみたいで、流川がそれに怒って、俺もなんかしらんが怒って、そこからしばらく口をきいていなかったらしい。よく分からないケンカだった。なんで流川がアメリカに行くって言って俺が怒るのか分からないし、帰ってこないなんて言う自分も分からなかった。もしかして流川がアメリカ行くことに嫉妬したのかなと思った。バスケをしに自分もアメリカに行きたかったとか、負けたくないとかそういうのがあったのかもしれない。それはありえる。俺は負けず嫌いだ。先を越されて悔しかったのかもしれない。友達だったらもっと悔しい。でも、帰ってこないとかそういうのを言うのはよくわからなかった。そういうことを言う自分はいまいちピンとこないし、人のめでたい話に水をさすなんてちょっと情けないなって思った。
「そんなのもう忘れっちまえよ」
流川はまだ納得のいかない顔をしていた。
「俺に聞いたってわかんねえって」
なんか面白くない気分になって、俺は体を後ろに倒した。高校高校。みんな用があるのは高校の俺のようだった。俺を見て早く戻るといいね、と言う。でも俺は俺だ。戻るって何だと思う。戻るといいねと言われることは、この俺はちがうと言われているように聞こえるようになっていた。今のままじゃ駄目だと言われている気がした。記憶が戻ることを望まれるたびにちょっとずつバツをつけられている気分だ。しょうがねえって事は分かってるけど。流川もそうなんかってちょっと悲しくなった。
「お前も、俺がはやく記憶戻せばいいのに、とか思ってるんかよ」
「・・・・・・べつに」
「本当は俺がいろいろ忘れて困ってんだろ」
「忘れたならまた覚えればいい」
はっとした。そうだ、その通りだ。勢い付けて起き上り、机の上に乗っていた流川の手をぎゅっと握った。流川の顔が驚いた顔になったのを見て俺は離すどころか握る力を強くする。今の俺を否定も肯定もしない流川の言葉が嬉しかったのだ。流川が困った顔をして、俺の手から自分の手を抜こうとした。それでも俺は離さなかった。「離せ」と言われても離さなかった。しばらくそのやり取りをして、最後は諦めたみたいで握られたままでいた。途中から頭の中がガンガンうるさくて大変だったけど、流川の困った顔がとてもよかったので気にならなかった。時折、困った顔をして俺を見てきた。男に手を握られたらそりゃそうだろうなと思う。でも不思議といやがっているようには思わなかった。だから俺は気が済むまで流川の手を握って、流川の困った顔を見つめていた。