*これは楓と彩子が赤木家の一員になってからまだ間もない頃の話である*
ある日の朝、楓は定時よりも早くに目が覚めた。
口の中になにか違和感を感じて、目を覚まさずにはいられなかったのである。
もちろんちょっとやそっとの違和感なんかはものともせず、すぅすぅと寝続けられる楓であるが、今日はちょっとその限度を越えていた。
口の中に花道の足の指がつっこまれていたのである。
さすがの楓もこれには目が覚めてしまった。
花道は起きている時と同様に寝ていても大変元気である。
寝ている間に彼の頭の位置が一周しているなんてことはざらであり、だからそのついでに花道の足の指が隣りで眠る楓の口に入ってしまうということも、おこりえたことであり、予測できたかもしれないが……やはりどんなに予見できても不愉快なものは不愉快である。
口の中につっこまれていた指をたどり足首をさぐりあてつかんで引っ張り出す。そして起き上がって、楓は、その足首の持ち主をじいっと見つめる。
持ち主はそれはそれは気持ちよさそうにねむっていて、楓はとても腹立たしく思う。
当然の感情である。
自分も寝ていたかった……。
握ったままであった足首に、楓は爪を立てた。
「きゃははははは、やめてやめて、きしもと~」
不思議な寝言である。
のんきな寝顔と不明な寝言にすっかり毒気を抜かれてしまった。
楓は意地っ張りで素直じゃないが、決して意地が悪いわけではない。
完全に丸腰の花道をどうこうする気はすぐに失せてさっさと足首を解放して、また寝ることにした。
しかしそのとき、らしくもなく時計を見たのがいけなかった。
長い針が9をさしていたのだ。
自分は12まで寝て良い。
9と12の間をイメージし、もう自分はあまり眠れないとわかる。
そのとたん、口の中の違和感がまた蘇って、なんだか気になりはじめてしまった。
それでも寝たのは寝たのだが、すぐに熟睡とはいかなかった。
次に起こされたときは、いつも感じる目覚めのすっきりとした感じがあまりなかった。
それもこれも、隣りで騒々しく着替えているあの足の持ち主花道のせいであると思う。しかしそういうことを彼に言ったところでなにも始まらないことを、楓はとてもよく分かっていた。
分かってはいたが、安眠を妨害されて、楓はひどく不機嫌だった。
***
「ほら楓、はやくしなさい。」
「もたもたすんなよ、きつね」
最後の台詞の声の主を見つめる。
いまいましい。
「そんな目で見つめても、おれはなにもしてやらないんだからな!」
どあほー。
「楓、早く食べなさい」
いつになく緩慢な動きの息子に彩子は首をかしげる。
「なんだ、楓はまだ食べ終わってないのか」
その時、ぬっと赤木が現れた。
「ゴリ!」
平日のこんな時間に父親がいることなんてめったにない。
花道が大興奮で飛びつく。
まさかの赤木の出現には、楓も驚いた。
「なんでいるんだゴリ!」
「誰がゴリだ。お前はまったく何度言ったら分かるんだ。」
「なんでいるんだゴーリー!?」
まったく聞いちゃあいない。
「今日は少しゆっくりの日だ。」
「ゴリ、ゆっくりの日のまきー!」と叫びだしたのを見て、もう言葉遣いを正すことはあきらめて赤木は食卓の椅子をひいた。
突然の赤木の出現にすっかり面食らっていた楓だが、おかげで不機嫌さもすっとんでいた。
よし食べようかと思っていたところだった。そこへ彩子が「急ぎなさい」とまた声をかけてきた。
「そうだぞ、いそげのろまなきつね」
「そう言うお前は歯は磨いたのか。」
「あ、まだ」
「ばかもの。人のことをどうこう言える立場か。さっさと磨いて来い。」
「は・み・が・き・じょーずだもんよー」
歌いながら歯を磨きに行った花道にやれやれとため息をつきながら、向かいの楓を見る。なるほど、皿の減りが悪い。
「楓はどうしたんだ」
「なかなか食べ終わらないのよ。困っちゃうわ。」
いま食べようと思っていたのに。
だけどいろんな邪魔が入ったのだ。
思えば今日は最初からいろんな邪魔が入って(といってもおおもとの原因はひとつだが)、ぜんぶが思うとおりにいかなかったのだ。
だけどそれでもなんとか調子を取り戻したのだ。
それなのにそんな風に自分のことを父親に報告されて、楓はとても腹が立った。だから思わず、
「かーさん、ちょーうるせー」 と言ってしまったことも仕方のないことだったかもしれない。
対する彩子は、楓がかつて自分に対してそんな口答えをしたことがなかったために大変驚いて。冷蔵庫をあけたままで思わず振り返った。
「楓、今の言葉はなんだ。お母さんに対していう言葉か。」
「だって」
「だってじゃない。謝りなさい。」
父親の声色がいつものものと違う。
怒っているのだとわかる。
けれども自分は悪くないと楓は思った。
悪くないと思っているのに簡単に謝罪を口にするタイプではない。小さいながらにもう人格は定まりつつあった。
自分は謝らないぞという意志表示か、楓はぎゅっと口を結ぶ。
シリアスさを伴って場が静まり返る。
口も手も完全に動きが止まった息子に、赤木が声をかけようとしたときだった。
「あーまだもたついてやがる。ゴリ、かんとくふゆけとづぅーーーだぞっ!」
歯を磨いて戻ってきた花道の頭についに「お前もだ」とゲンコツが落ちた。
落とされた頭を抱えながら「すぐなぐるぅー」と花道が悶絶してたところへ、支度を整えたヒサシとリョータが現れて、一気に場がにぎやかになり彩子は少しほっとする。
悶絶する花道の頭を撫でてやりながら「朝からホントにお前というやつは」とあきれたようにリョータが声をかける。他方でヒサシは、食卓の皿を見つめたまま固まっている楓に気づき 「どうしたチビスケ、はらいたか」と声をかけていた。そう言われても皿を見つめたままの楓の様子をヒサシは少しいぶかしむ。「おい」ともう一度尋ねようとしたとき、「さあ、楓はもう今日は良いからいきなさい。」遮るかのように彩子が言った。
もちろん彩子も楓の様子が普通じゃないのは分かっていたが、これ以上この話題を広げるつもりはなかった。
朝からこの手の面倒は避けたかったし、それに本当に早くしないと遅刻してしまう。
だから彩子は事態をうやむやにしたまま、2人を学校に行かせた。
しかし、これがよくなかった。
***
「キツネ、パトロールいくぞ」
「きょうは休む」
家の平和を守るため、花道と楓は定期的にパトロールをするのが務めである、と彼らは思っている。
パトロールとはつまりぐるぐると2人で家のあちこちを歩いて回るだけのことである。
しかしこのパトロールはこれまでもミッチーのサボタージュの摘発やリョータのませた本の発見などの成果を挙げている。
おにーちゃんズが最も恐れている弟たちの所業であり、ゆえに花道と楓にとっては大変有意義な作業となるのだが。
そのパトロールを今日は楓は休むというのだ。
朝、なにも解決しないまま学校へやられた楓の心には、父親との一件は、黒く重たいものを残したままとなっていた。
普段ならばそんなことを引きずるタイプではないのだが、そもそも今日は始まりからして普段と違っていたので楓はとても不調だった。
学校でも元気が出ずに誰とも遊ばずぼんやりとしていた。なによりとにかく眠かった。
家に帰っても調子が出ないのは変わらずで、まずお菓子を残した。
それから花道と遊ばなかった。
決して花道のことを怒っているわけではないのだが、ただ、誰かと遊ぶ気にはなれなかった。
そのまま夜を迎えたが、夕飯もやはり残した。
そのあともずっと自分の部屋にこもりきっていた。
「パトロールやらねーの?」
「やんねー」
帰ってからずっと眺めたままの地図帳のページをまた一枚めくる。
「ふーん……」
パトロールをひとりでやってもつまらない。
持っていた時計を片付けて、首を突っ込んで一緒になって地図帳を覗いてみる。
「…………」
毎回思うが、これのなにがそんなに面白いのかが花道には分からない。
さっさとやめて、おにーちゃんたちの部屋に行こうかなとドアの方を見た時。玄関の方から聞きなじみのあるそして毎日楽しみにしているあの物音が聞こえてた。
赤木の帰宅だ。
「かえったぞ!」
楓に合図するように声をかける。
そしていつもならそのまま2人で玄関にいるゴリの元へダッシュだ。
しかし、今日の楓は地図帳を見たままの姿勢を崩さなかった。
そこでようやく今日はなんかコイツおかしいなあと思い至る花道である。
「いかないのか?」
「いかねー」
「なんで?」
「いきたくねー」
聞き捨てならない言葉である。
つかつかと楓に歩み寄り地図帳をふんっと取り上げる。
「なんでいきたくねーんだ!」
「……」
「ごりがかえって、うれしくないんか!」
「なわけねー」
「だったら行こうぜ!」
「いかねー」
「なんでだよ!なんかいやなんか!?」
「あっちがいや」
「……ミッチーのことか?」
ちょっと小声になる。
「ちげー」
「なんだよ」
なかなかはっきりした答えを返さない楓に、焦れる。
「なんだよいえよ!」
「とーさんが」
「ごりがなんだよ」
「いや」
「あ?」
「おれのこと」
やっとよこした答えに「なんだ」と花道は呆れる。
「ばかだなあ。そんなことあるわけねーだろ。ゴリはおめーの父おやだぞ?」
「……どーだか」
***
その頃おにーちゃんずは、新しい世界について語り合っていた。
「将来地球はメス化するらしいぞ」
「メス化?」
「オスがいなくなる……んー……地球から男がいなくなるってことだ。って、こーとーはーだっ、おめー……いなくなるんだなあ。」
「……アンタもでしょ?」
「おれは、いる。ハーレムだ。」
頭のうしろで手を組んでなにやら夢見心地の兄にリョータはさっさと見切りをつける。そして残りの宿題を終えようとしたときだった。
いきなり隣りの部屋から、わあああああ、という叫び声が聞こえてきて。ふたりは思わず顔を見合わせる。
いつもの騒ぎじゃない。
弟たちの部屋に飛び込むと、花道と楓が取っ組み合っていた。
それはいつもある光景なのだが、いつもと違うのは花道が何もいわずに楓に手を上げていること。
本気のけんかである。
ふたりの本気にヒサシもリョータも驚き、慌ててふたりを引き離そうとするが。
しかしちびなのになかなかの力である。
でかくなったらこりゃやっかいだと頭の隅で考えながら、ヒサシはなんとか楓から花道をひっぺがす。
「ばかたれ!ケンカすんなら楽しくやれ!本気で殴りあう奴があるか!」
向かいで楓を抱えるリョータは、兄貴のセリフに心の中で首を傾げる。アニキはいつもちょっと惜しい。
「ケンカの理由は何だ!」
ふたりともなにも言わない。
「いえないのか!」
「なんだ。どうしたんだ」
子どもたちの尋常でない騒ぎを聞きつけ、赤木も彩子も駆けつける。
「なんだ、なにがあったんだ。」
「チビたちがいきなりマジゲンカをおっぱじめやがったんだよ。」
「ゴリのせいだぞ!」
それまで黙っていたいきなり花道が叫び、いっせいに皆が見つめる。
「なんだ?」
「ゴリはキツネがいやなんかよ、父おやなのに!」
「そんなわけがないだろう」
赤木が目を丸くして答える。
「でもキツネがそういってる!ばかゴリラ!見そこなったぞ!」
小学校一年生に見損なわれて、赤木は途方にくれる。
いったいどうしたことだと楓を見つめる。
「楓?」
そしてようやく楓がその重い口を開く。
「おこった」
「ん?」
「あさ、おこった。」
楓のセリフに一同はハッとする。ただし、
「ばかやろー!おこられるくらいなんだよ!オレなんか」
「お前はちょっとこっち来とけ」と慌てておにーちゃんズが部屋の外に連れ出す。
部屋が静かになり、改めて赤木は楓と向かい合う。
意志の強そうな目に悲しみ見える。
彩子は朝、うやむやにしたままであった自分の行動をとても悔やんだ。
「怒ったというのは朝のことか?」
楓が静かにうなずく。
「どうして怒られたのかはわかっているんだろう?」
先ほどよりも少し小さくうなずく楓に赤木は続ける。
「お前が言っちゃあいけないことを言ったからだ。心配してくれている人にうるさいなんていったらいけないことだ。」
「すごくおこった」
そのセリフに少し苦笑する。
「おまえがいけないことをしたから怒るんだ。花道がしても怒るしおにーちゃん達がしてもそれはおんなじだ。でもそれは嫌いだからじゃない。好きだから怒るんだ。」
そのまましばらく楓は赤木を見つめていた。
長い間ずっと赤木を見つめ続け、赤木もまたその楓の視線をしっかりと受け止め続けた。
それから楓はしっかり強くうなずいて、彩子のいる方に向きを変える。
「ごめんなさい。」
「うん。おかーさんもごめんね。ちょっとうるさくしすぎたもんね。」
ちゃんと謝ることのできた楓の頭を「いい子だ」とゆっくりと撫でる。
頭を撫でる赤木の大きな手のぬくもりで楓の心は明るさを取り戻した。
部屋の外で三人のやりとりを聞いていたヒサシとリョータはやれやれと胸をなでおろし、花道を抱えたまま自分達の部屋にぞろぞろと戻る。
「どうなることかと思ったぜ。」
「よかったよかった。」
「いやしかしそれにしても」
解せないのは、とふたりは花道を見る。
「なんでおまえが楓を殴るんだ」
「そうだよ。なんでお前が怒るんだよ。かわいそうに、あいつ唇のはじっこんとこ切れてたじゃねーか」
「おれだって、はらのところけられたんだからな!あのらんぼーもの!」
「お前からしかけたんだろーが!」
「あいつがかぞくのきずなをうたがったりするからだ!!」
手を平らにさせ宙を切りながら「テンチュー!」と叫ぶ花道におにーちゃんズは苦笑する。
まったく、この弟にはかなわない。
その日の晩、楓は考えた。
また口に足の指を突っ込まれて、今朝のようなことになるのはごめんだった。
そのためには自分が何とかせねばならないとずいぶん考えた。
寝相をよくしろといってできるようなやつでないことは百も承知していたし、それに起きていても寝ていても「動くな」と花道に言うのはなんだか気乗りがしなかった。
だから自分で何とかしようと思ったのだ。
そして彼は思いついたのだ。
花道から布団を離して敷けば良いのだ、と。
自分から少し離して布団をひきはじめた楓を見て花道はショックを受けてそれから少し寂しかった。だから「フンッ!なんだよそれ!」としばらくの間は言い続けた。
しかしそのうち慣れた。
距離を置いても楓は変わらず隣りに居続けるのだと分かったから。
だって楓は家族であるのだから。